清志郎さんが、残念ながら亡くなってしまった。
夜中のニュースで、その訃報を聞いた。
ショックだった。
清志郎さんの存在を知ったのは、「ボクの好きな先生」という曲だった。
RCサクセションという、「ある日サクセスするんだ!」としたバンド名と、その何というか?独特の節回しの唄が印象に残った。
俺が、小学生か、中学生の頃だったか?
そして、RCサクセションが爆発したのは、俺が学生の頃だった。
ド派手な衣装とメークで、ミックジャガーさながらのステージアクション、ストレートなロックサウンド、そしてあのヴォーカル。
何かをぶっ飛ばしてくれたような、そんな雰囲気があった。
日比谷のコンサート(VSサウストゥサウス)を観に行った。
圧倒的だった。
ホーンセクションは、モチロンRCホーンズだったよね。
片山さんや梅津さんがいた。
それから数年後に彼等と演奏する・・とは、全く思えなかった。
de-ga-showというバンドに参加してから、ある日片山さんが「清志郎でも呼ぼうかなあ?」と言った。
そりゃあいいですねー!っと、俺。
それからde-ga-showのアケタの店などのステージに清志郎さんがサックスを持って登場するようになった。
前後関係は定かではないが、de-ga-showのセカンドアルバムの「続」にライナーノーツを清志郎さんが書いたりもした。
俺の曲「suna-kaze」のコメントが、イカしていて好きだった。
そんなこんなで、de-ga-showと清志郎さんとで1枚アルバムを作ろうとなったのが、「ホスピタル」だった。
録音スタジオでは、清志郎さんの世界とde-ga-showのバンドの音との、せめぎ合いだった。
(そのスタジオは、EATJUNKを録音したスタジオだったなあ)
俺のギターの低音成分が多いので、エンジニアにカットされて、正直「ムッ」としたこともあったが、ある意味マトモじゃあないバンド=de-ga-showのサウンドに真っ向からその独特なユーモアで包み込む清志郎さんの作詞・ヴォーカルに舌を巻いた。
「ホスピタル」のライナーでスィンギンバッパーズの吾妻さんが言っているように「くだらない!本当にくだらない!」という歌詞にスタジオで初めて遭遇した時の事を想像出来ようか?
もう、抱腹絶倒!参りました!って感じだったんだよ。
清志郎さんが、「篠原連れてきて、声入れようか?」って言って、篠原涼子ちゃんがスタジオに来たときには、ドキドキしたなあ。。。
清志郎さんと涼子ちゃんが、ヴォーカルダビングして出た後のブースに慌てて行って、残り香をクンクンしたアホは、ワタシです。
「ホスピタル」ツアーのゲネプロ(ステージを想定したリハーサル)で、俺は遅れてしまったのだが、そこでの光景を思い出した。
de-ga-showは、なんだかんだといってもジャズバンド?
ゲネプロで、イスに座って演奏している・・・・
清志郎さん、やりにくそうで幾度もバンドを振り返っていた。
俺は、慌ててセッティングをして、立ってフルヴォリュームで演奏した。
それから、連中も立って演奏し始めた。
それからギクシャクしていたムードが一掃されて、リハは順調に進んだ。
京都での演奏前に、俺は考えていた。
ド派手な清志郎さんのステージングにどうやって対抗するか?だ。
圧倒的な存在の彼に、何をやってもダメかもしれなかったが、ダメでモトモト。
やるしかなかった。
そこで、EATJUNK製作の撮影時にもらったイッチョウラの皮のパンツを持参し、京都の町のお土産屋に飛び込んで、黒の「寿」Tシャツと黒のガウンみたいに見える「寿」をあしらった浴衣(ガイジン向けのオミヤゲね)を見つけて慌てて購入。(寿は、オメデタイだからね。オメデタヤってことさ)
まだ黒かった髪の毛を束ねて変な素浪人よろしくのいでたちにして、ステージに臨んだ。
俺は、彼に突っ込んでいきたかった。
ステージでの清志郎さんは、やはり圧倒的だった。
例えが違うかもしれないが、レゲエのベースのようなタイム感のヴォーカル・・そしての「あの声」だ。
京都「タクタク」の超満員のお客さん全てに「あの声」が、容赦なく包みこんでいった。
その説得力。
素晴らしかった。
あっという間の嵐のような演奏が終わり、打ち上げも済んでの後。
京都の街中のある居酒屋で、ひとりごちている清志郎さんに会った。
そこで、「酒井君は何年生まれなんだい?」と聞かれて「1959年っすよ」と答えたら、清志郎さん「じゃあ同じ年代だねー。」って。
あー、あのー同年代っていいますけどー、それって初めと終わりっすよねえ・・・っと答えたかどうだかは忘れたが、そんな会話を交わしたっけ。
清志郎さん。
あんた、最高っすよ。
ご冥福をお祈りいたします。
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