ちょっと前の電車の車中にて。
受験を控えた高校生らしきが二人づつ、四人。
まあ、知り合いとかでもなさそうな、一斉模擬試験を受けてきた様子。
二人で互いに「答え合わせ」的なことをやったり、何処何処の大学に入るには・・とかいう会話も聞こえる。
その会話やら答えあわせをする様子やらを眺めていた。
そして思い出した。
オレが、「その当時」の時の気分と同じ気分で、彼等の話を「遠く」で聞いたこと。
何かしらの「遠い距離感」と少しの「嫌悪感」
その若い彼等には、勿論悪気?も無いし、このオレにしても彼等に「そういう感情」をワザワザ持つようなことでも無い。
自分がその「高校生と同じ位の年代」であっても、そういった感情を感じたことを思い出し、不思議に思ったのだ。
つまりは、当時と変わってないのか???
そうとも言えるのだろう。
でも、その感情を持った訳・理由が、今でもオレの中に同じようにある。
それが不思議にも感じたし、その理由とは、何だろうか?何を感じたのか?
オレは、まあランクで言えば中位の高校生だった。
1学年400人の在校生のうち、東大に入れる奴が一人・二人の、ワリとレベルレンジの広い?学校であったのだろうか?
最悪につまらなかったが。
で、入学した当初は、あるテストにて、400人中上から5番目だったりして、自分でも「やるなあオレ!」とか思ったが、卒業時にはケツから数えて10番目位になっていた。
つまりは390番ってことか!
勉強するということが、たまらなく嫌だったのだ。
机に向かっても、音楽聴いたりギター弾いたりで、まるでダメだったのだ。
既に想いだけは、高校生になった瞬間から音楽の道に行くことを決めていた。
それこそ「アテモナニモナイ」唯の夢であったのだが。
でもやりたかった。そうなりたかった。そう思うしか無かった。
真っ暗なその時期での唯一の一筋の淡い光でしかなかった。
そう思っていたからか?その車中の高校生のような人間達には「疑問」を抱いていたのだ。
「何故?何故自分の未来に疑問を持たなくて、盲目的にそれをするんだろう?」
まあ、勉強をするのが当たり前っちゃあ、そうなのだが。
その車中の高校生らしき彼等の会話は、正直言って、面白くなかった。
そして、何か言葉の端といおうか?会話のニュアンスに、得体の知れない気味悪さを感じたのだ。
「自分だけよければいい」とするような、排他的な何か。
社会の常識だとか、マナーというのだろうか?
そんなことは、後でも儀礼的に身に付けられることでもあるが、そういうものではない、何と言うのだろうか?
人としての何か・・何か冷たいものを感じたのだ。
ああ、それはオレが勝手に彼等を決め付けてることでもある。
それは、危険なことでもある。
しかし、何かそういった感じがしてしまったのだ。
そういう彼等が、模擬テストの答え合わせを何の疑問も持たずにして、何処何処の大学に入り、そして社会へと金太郎飴のような顔をした人間となって押し出されてくるのか?
時代は変わったって??
確かに情報の量的な部分やモノは、気が狂っている程に溢れかえっている。
でも、時代が違うのか?
オレが生きているこの時代がか?
まあ、極論だ。これはオレの単なる決めつけでしかない。
何の疑いも疑問も持てない?これは、もしそうならば危険なことだ。
社会・・いや世界は、ある意味、欺瞞に溢れている。
それはオトナとなった今、自分が実感することでもある。
うっすらと見えないベールに覆い隠されているもの。
その存在を普段は日常に忙しく、気にする余裕も無い。
ただ、その覆い隠されたベールの裏には何があるのか?
そしてアイってやつは何処にあるのか??
でも、このヨクってのは、いったい???
その疑問は、オレはその当時から感じていたりもした。
「何故に大人達は、そうなのか?このままだと良い訳が無いじゃあないか!俺達はどうすればいいのだ!」と思っていた。
今、正にそれを思う。
オトナとなってしまった自分に言いきかせる。
「このままでいいのか?良い訳が無いじゃあないか!次の奴等はどうすればいいのだ!」
しかし、その思い方といおうか?いってみれば「センス」のようなものは、自分の両親から貰ったものでもあるように感じる。
自分の自らの足元と、それから繋がる世界中をこれから覗いてみればいい。
自分の体験こそが、ものを考えるに当たっての確かな手掛かりでもある。
知識なんてものは、それだけでは何の役にも立たない、むしろ邪魔な存在にもなってしまうものだ。
いろんな試練があるだろう。
それは等しく皆のトコロにかたちを変えて現れてもくるだろう。
くじけてもいい。
落ち込んでもいい。
失敗したって、後で取り返せばいい。
君達に託す前に、自分で何処まで行けるかが、これからのオレのやることだ。
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