最近の裁判の話。
最愛の妻子をある犯行当時少年に暴行・そしてコロサレテしまった裁判にて思う事。
この裁判が、何かに利用されている気がしてならない。
たった一人で立ち向かっている、被害者の家族。
事の真相は、何なのか?
無残にも暴行され殺されてしまった・・が、真実だろう!
「甘えたかった」が、殺人に到ることなのか?
凶暴な欲望の爆発が、殺人を犯したのではないか?
死刑というものを個人的には、あまり容認したくない・・・とは思う。
しかし、この事件の裁判にて「死刑廃止」と結びつける事は、それすらが「暴力」なのではないか?
否、そこにある暴力を見る。
被害者に対しての考慮など、皆無。無残にもこれを無罪とするならば、これを暴力というだろう。
加害者の人権よりも、被害者の人権を優位に考えなければならないのではないか?
真実こそが、カギだろう?
だが、このクニは、犯罪被害者に対してのケアというか、一番に考慮されなければならない対象に、余りにも冷たい。
冷たいというと、感情的なものとされてしまいがちだが、実際、犯罪被害者は、ある日突然に理不尽にも遭遇してしまった事を日々、その苦しみと向き合わされてしまうのだ。
これは、きつい。
なかなか想像出来ない事かもしれない。
しかし最近クダラナイ法律が、数の暴力でなし崩しに決まっているのを見て、更に憤りを感じてしまう。
結局、オザナリにされ無視され、被害者達は、苦しまなければならない。
生き続ける限りにおいて、これと向かい合い続けるしかないのか?
オレのことにしても、犯人の似顔絵の制作が、事件発生から「一年半後」だったのだ。
その理由も「予算」が無かったからだと説明された。
それで、犯人を捕まえられるのか?どう考えても無理だろ!諦めろ!とでも仰るか!
社保庁の年金問題・多くの裏金の問題・税金の不正流用等、結局このクニの税金という自動的に入金される巨額の資金源のパイをヨッテタカッテ食い潰しているのは、何処の誰だ?!ということになる。
決して一般庶民ではない。食い潰しているのは、一部の、ごく一部の輩だ。
そしてまた、何処かへ流れていく。それも流れる先は一般庶民ではない。
いい加減、目を覚まさないといけない。
自分自身を守るに精一杯は、解る。
でも、もはやそれすらも危うくなっている。
全ての流れは、そうなっているではないか!
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