Tuesday, April 22, 2008

判決

昨日に注目されていた判決がなされた。
それについて、ああだこうだは、各方面にて言われる事だろう。
ニュースを見て、原告の人の言葉に考えさせられた。

彼の言葉は、重い。
一人で現実を受け止め、受け止められなくても必死の想いで受け止めて、考え尽くして行動してきたのであろう。
物見胡散の記者達の容赦ない突っ込みに対して、感情に流されること無く、自分の言葉を言い切った。
自分にとって心に残った彼の言葉は、「このような犯罪をどのようにして無くしていけるのか?が重要なことです。どういった社会を作っていくのか?なのです。」とした意味の言葉だった。

彼が到達したことは、このことだったのではなかろうか?
彼が本当に言いたかったこととは、このことなのではなかろうか?
これは、大きな矛盾(人間の善と悪)を孕んではいるが、無視など出来ない重要なことだ。
この判決によって、局所的な部分が一人歩きを始めている。
やれ前例の無い前例を作っただとか、云々。
死刑という人が人を裁くという、難しいことも表面化し、そして捻じ曲がった形で問われている感触がある。

危惧するのは、断片的な側面を利用する者達だ。

それらの存在を忘れてはならない。

例えば。

思い切り極端に言えば、「犯罪を撲滅=個人の徹底管理化」となれば、どうなるのか?
それは、ハイテクを駆使した強力無比の超管理恐怖社会だろう。
ICチップを埋め込まれ・・埋め込まなくても、IDカードを携帯義務化すれば、あとはそこらじゅうにセンサーだらけにすればオッケーなのだ。

利用とは、こういうことだ。
かけ離れた唐突な見方であるのは、もっともなこと。
しかし、このようなことをもし行われたら、犯罪撲滅との目的のようなもので行われたら、途端に違う意味が摩り替わるのだ。
ある事柄の断片をある種の感情を利用しデフォルメ・強調することによって、本来の意味とはかけ離れた方向に持っていく。
これは、既にあることでもある。
今の政治が、そうではないか。
では、教育の見直し?
これにしても、ナニオカイワンヤだ。
人間の深い考察、そして何に起因して人を育てていくのか?
それが、短絡的な何かを祭り上げて、信じ込ませてひれ伏すことを強要する方向へと行きたがる勢力が顔を出してくる。それも巧妙に。
これは、以前にやったことだ。
それを美徳として、信じ込んでいるとんでもない輩達が存在するのも事実だ。

原告の人は、ある日突然のとんでもない理不尽な外道の欲望にて、平和な愛しいものを卑劣な暴力によって奪われた。
その外道が、反省の二文字が無い事を知って、戦う事を決めたのだろう。
たったひとりの戦いなんだろう。
押し寄せる野次馬の如き暴力的な好奇の目・司法そして権力の無意味さ、人間の浅はかさ・くだらなさを嫌というほど味わってしまったのかもしれない。
彼にしか、その意味は解らないのだろう。

その彼も、今は解らないと言っていた。

そうなのだろう。

いくらニュースが、家族の在りし日の映像と彼の今の表情を映しても、何か違和感を感じてしまう。
単なる悲劇とする、映像化することによってのエンタメ化のような、違和感を感じてしまう。

私達人間というものは、愚かなものだ。
それこそ、クニだとか何々人・人種など関係ない。
どんな偉人でさえ、対して変わりは無いであろう。
だけれども、私達は、何を持っているのだろう?

何をもって、生きていくのだろう?

そんなことを問われていると自分は感じた。

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