Monday, July 13, 2009

ジミがやろうとしたこと

今年は、あのウッドストックから40年目という年らしい。

某音楽雑誌の表紙にウッドストックでの「ジミ」の写真。
思わず買ってしまった。
もー、この雑誌もなんというか、俺等以前の世代?のギタリストを繰り返し特集しているのがおかしい。。っていうか、そうせざるを得ないのかもね。
まあ、それはいいや。

で、ジミがあのウッドストックに出演して、歴史的な演奏をした周辺事情のルポが、興味深かった。
あの時、ジミは何をしようとしていたのか?

ジミのことを解ろうとすると、まあ解る訳が無いのだが、やたら秘密が多い気がする。
それまでの事を勝手な想像・妄想で言ってしまうのは危険なんだが。


自分でも解らない・持て余すほどのエネルギーを持っていたジミ。
イギリスに渡り、時代の寵児となって混沌とした空気を突き抜ける存在になってしまった。

奴のエネルギー・・自分自身のあらゆるエネルギーが、あの大爆音を伴う時代を象徴するギターサウンドとなって世界に放出され、そのエネルギーをまともに食らった聴衆は、その強力なエネルギーに吸い寄せられ、おのおのの勝手な想い(マイナスなものも含まれる)をジミのサウンドに同化しようとある種の勘違いのようなエネルギーをジミに送ってしまった。

エクスペリエンス時代のジミ。
自分の想いとかけ離れた聴衆のエネルギーの塊が、ジミを容赦無く襲っていった。
自分自身のかけがえの無いエネルギーであったが、それを観客の期待にそおうとし、予定調和として演じなければならない・・というジレンマに陥ったのかもしれない。
そしてジミは、疲れていった。


でも、ジミは次のことを模索した。
音楽の更なる深み・更に突き抜けようとする音に到達すべく道を模索していたに違いない。


そのサウンドの提示の試みが、あのウッドストックでの「ジプシー&レインボウ・バンドオヴジプシーズ」だったのかもしれない。
興味深いのは、複数のパーカッションともう一人のギタリストの登用。
そこにジミならではの、次の次元に向かおうとするアイデアがあったように思う。


その動機。そこが重要だと記事を読んで感じた。



その「ジプシー・・」のメンバーであったパーカッションプレイヤーの一言が気になった。
曰く「ジミは、民族音楽に興味を持っていた・・・」

それでジミは、ウッドストックの行われる数日前にリハーサルをすっぽかしてモロッコに数日間過ごしたらしい。
そして前記のパーカッションプレイヤーとアコースティックで模索していた様子を彼曰く「なんというか、ウェスモンゴメリーというかセコビアというか、明らかにモロッコの影響がある感じのことをやっていた」と。


モロッコといえば、俺の記憶が正しければ「グナワ」発祥の地。
あのミステリアスなビート・グルーヴにジミは触れたのかもしれない。
勿論、それだけではなくあらゆる音楽を吸収しようとしていたのだろう。


あらゆる民族音楽。

それはきっと、その様々な土地にそれぞれ生き続けた人々の深淵なる想い。


その、いろんな民族音楽(生き続けた人々の想い)の「音」が向かおうとした「方向性の共通項」をジミは、その繊細な感受性で感じ取っていたのではないか?自分も「それ」との共通項を感じ取っていたのではないか?

それを自身の音楽にぶち込もうとしたのではないか?

そして、それを発射台にして、更なる高みへと臨もうとしたのではないか?

ウッドストックでのバンドとしての演奏は、あまり成功したとは結果として言えなかった。
しかし、それをトライしようとした形跡は、物凄く悪い録音状況(全ての楽器を捕らえていなかった)下で、僅かながらの片鱗を聴くことが出来る。
それもほんのごく一部に過ぎないのだが。(例えばもう一人のギターとの絡み具合とか)

ドラマーのミッチ・ミッチェルが、彼の手記で「ジミにリズムギタリストが必要とは思えない」とか、「複数の打楽器奏者がいる場合、難しいことになる。あれもそうだった」と言っていたらしい。
確かに「腕が立つ」とか「楽器が上手い」連中を集めただけでは、ケミストリーというか、マジックは生まれない。
マジックは、思うに本当に奇跡的な「組み合わせ」の成せる技だと思う。
結果、ウッドストックでのバンドは、そうではなかったということか?
ジミに、今思えば、時間が足りなかった。

よく言われていることで、ジミがエクスペリエンス以降志向したのが「ある種の共同体のような・・」ものだという。
それはきっと、音楽での理想郷というか?
いろんな音が単なる自己主張ではない、といって完璧にガチガチに構築されたものでない、共同体のようなものであったのか? それはきっと絶妙なバランスでもって初めて成り立つ音楽?
しいて誤解を恐れずに言えば、「地球に生き続けようとする自分達の音楽」を目指そうとしたのではないか?
そのヴァイブをエレクトリックでブーストして、地球をそっと包み込もうとしたかったのではないか?

やりたかった音楽は、音楽そのものが向かうところに対しての徹底した献身のなせる「音楽」だったのかもしれない。

そんなことを具現化出来るミュージシャン達との出会いが、ジミは欲しかったのだろうか?
そう思えてならない。

では、俺は?

プランが実行出来るか?は、解らない。
が、それをしようとするだけだ。

2 comments:

sharaku said...

>絶妙なバランスでもって初めて成り立つ音楽
正に我々がやろうとしている
質量(エネルギーの密度)構成法なのです。

管理人 said...

絶妙なバランス。仰るようにエネルギーの密度の問題かもしれないですね。
自分が思うのは、1月にやった自分のセッションが、各ミュージシャン達がとても高次元なバランスであったと思います。シンプルな曲を複雑化しようとするでなく、何処までも続いていける・止まらない・有機的な音楽を「そこ」に出現させてくれた。力技でない、自然体といっても各々の強烈な集中力があっての「音楽」でした。あれは、今まで自分がやってきた中で間違い無くのエクスタシーがありました。
それも「極上」でした。