Wednesday, October 20, 2010

ジミ・ヘンドリクス「天国のギタリスト」プラスα

以前、インタビューをした記事が、10月20日にシンコーミュージックから「天国のギタリスト」というムック本にて発売された。

その中の殆どが、ジミ・ヘンドリクスの記事でもあり、そのジミについてインタビューされたという訳。

その記事にて、あらためて読み返して思うことがあり、補足という訳でもないが、言い足りなかったことを記したいと思った。

ジミとマイルスとの関係というか、その部分でのこと。

勿論、自分自身が熱心なジミ研究家というほどのモノではないので、あくまでも自分の想像でしかない。



マイルスが、ジミに対して「ギターであれだけブルーズが出来るのが解った。」と言ったらしい。(マイルス語録から)
ここで言うブルーズとは、音楽の形式でいう「ブルース」ではない。

ムック本では、心とか魂・ソウルと表現するしかなかったが、更に突っ込んで考えてみた。

ブルーズとは、あえて言うならば「生命力」「トランス」に通づるもの?
それは、何かを破壊してしまうような強力なエネルギーを発する元でもあり、深い慈愛?そういうものを孕んでいるもの・・というか?

マイルスが言おうとしたブルーズとは、俺のようなものには到底理解不能な「そういうもの」という感じがしてならない。
そして彼等の共通言語のような?もの。

彼等だけが、以心伝心出来るもの・・・。

だからマイルス曰く「白人のギタリストはセンターが無い」なのだろうと勝手に思っている。

ジミは、そのエネルギーを持っていた。
そして、テクニックなどに邪魔されないブッ飛ぶエネルギー要素を多分に持っていたことを一瞬でマイルスは見抜いたのだろう。

相当に深い部分でのシンパシーが、あったのではないかと想像する。

エレクトリックという武器。

彼等の深い欲求としての、例えばDNA・大地・そして宇宙と直接コンタクトを取れる強力なブツが必要だった。

それがエレクトリック(による音の強力な増幅・可変等)であった。

そして、そのエレクトリックと強力な呪術性を孕み放出出来るビートが必要だったのではないか?

マイルスは、強力な呪術性を孕むビートには、アイディアを持っていたに違いない。
そして、エレクトリックで音を自在に変化(へんげ)出来うる・また音そのものに強力な呪術性を孕んだ妖艶なジミのギターが欲しかったのではないだろうか?

ウッドストックコンサート当時、ジミもそのビートに対しての欲求が起こったのではないかとも思える。
それは、ウッドストックの数日前に北アフリカのモロッコへお忍びで旅をしていたということから推測される。
モロッコといえば、自分は未だそんなに詳しくは無いのだが、グナワなどの強力な土着のトランスビートがある。グナワだけではないかもしれない。アフリカの複数の打楽器からなるトランシーな呪術性にジミも注目したのではないか?と思われるのだ。

だからの、ウッドストックでの布陣だったのではないか?
そしてサウンドを構築していく過程において、バンドのパーカッション奏者曰く「ジミには、明らかにアフリカでの受けた刺激の要素を音楽にぶち込もうとしていた」とするインタビューがあったに記憶する。
曰く「アコースティックギターとパーカッションで初めはやっていた。それはとても素晴らしいものだった。そしてエレクトリックに移行した」と。
だが、バンドは上手くいかなかった。
多分、人間の組み合わせとして、また更に音のスペースのとり方に問題があったのであろうか?
それは、後日のドラマーのミッチ・ミッチェル曰く「複数の打楽器と演奏するには、難しいものがあった」とする言葉から想像出来る。

自分の経験から思うに、複数の打楽器&ベース等と合わせるときには、上手くいく場合は、ビートが凄く広くなる。それこそ大地のような感触ともいうのだろうか?
上手くいかない場合は、ただの音の羅列にしかならない。
そこの部分は、相当に繊細であり微妙な関係だと思う。
とにかくジミのウッドストックでのトライは、失敗に終わったのだろう。

マイルスの通称「アガルタバンド」

そこにジミは、もし存命したならば在籍というか?必ず一度は演奏したであろう。

アガルタバンドの音からは、ジミが欲しかったマイルスの音が聴こえるようでならない。

Wednesday, September 01, 2010

ナンか違うんじゃあねえか?

ここ最近の政治関係のゴタゴタ。
目に飛び込む、クダラナイ大本営のニュースやらポータルサイトのニュース欄やら。

ニュースの出所は、殆ど一つから統制・操作されて出てきていることを感じない人が多い気がする。

これほどまでに馬鹿らしいことは無いのだ。

何をもってそう言えるのか?

自分自身、そして人を基準に考えたら、解るのではないか?

そのセンサーも劣化しているのだろうか?

もうかれこれ20年も前のこと。

IMAバンドで、何回も欧州やら世界各国を演奏して廻る機会を頂いた。

そこで感じたことは、自分の国というものが、何やら目一杯ブン回っているのだが、何故かどうしても何処かが貧しいということだった。

これは、物質やら金のことではない。

人の生きる有様のことだ。

物心ついてから今まで、それが大きな疑問であった。
ガイコクとやらを見たら、その感が強まった。

人を大事に扱わない政治やら企業やら団体やら組織やら個人やら・・!

65年前の戦争で酷い目にあって、そして何とかして立ち直ろうとした自分の両親達が目指した先とは何か?
言ってみれば、人間が気の遠くなるような時間をかけて、未だ到達出来ない「生きてて良かったと思う世の中」に何故なれないか?

このことについて、一つ疑問が解けかかっている。

その考え方のフィルターを通して見たら、解ってきた事もある。
それは、宗教やら主義とか誰かを崇め奉るとかという類では全く無い。

でもそれでも単なるフィルターであるということは、自覚しているつもりだ。

この先、どんな事があっても「諦めない」つもりだ。
そのことを自分に課すつもりだ。

Tuesday, August 24, 2010

好きな日記

安部譲二さんのオフィシャルHP「大人気ないオトナ」の中に彼の日記「あんぽんたんな日々」という日記がある。
俺は、彼の日記のファンだ。

そして最新の日記での彼の語り口に感動した。

「戦争を止めよう」というタイトル。

彼の視点はとても印象に残る。

俺は、終戦後14年経った後に生まれた。
もはや戦後ではないとした空気の中に生まれたのだろう。
自分の両親の口から戦争で逃げ回った経験を聞いた。
何故か、第二次世界大戦の写真集もあった。
その中にヒロシマ・ナガサキの原爆の写真もあった。
子供ながらも「何故こんな悲惨な事をしなければならなかった」理由が全く理解出来なかった。

そして大人となった今でも戦争を起こす事において「正統な理由」など完璧に無いと確信している。

何故ならば、圧倒的な悲惨且つ膨大な不利益は、その双方の国民のみに襲い掛かるからだ。

またよく言われる「本当の悪人は、自分の手を汚さない」ということも当初は何故だか解らなかったが、その実態は何であるかをようやく理解出来るようになった。

戦争は、イデオロギーやら敵対する民族感情を悪用して権力者の利益のみで「起こされる」。
つまり、関係ない連中の画策によって金儲けの為だけに、戦争は起こされるのだ。
そして、その大義名分を凶悪且つ恥知らずの連中が、でっちあげる。

普通の民は、とんでもない悲惨な状況と堪えられない大き過ぎる悲しみに、ただ巻き込まれる。

だから戦争は、起こしてはならない。
絶対に。

氏は、「だから戦争を避ける為に選挙に行く」という。
そして「権力とは、最悪のパワーだ」と断ずる。

同感。

今年も暑い夏が過ぎていく。

Tuesday, June 29, 2010

惜敗。W杯サッカー日本代表

パラグアイと8強進出を賭けた試合。
120分の激闘の末、惜しくもPK戦にて敗れる。
悔しい。しかし日本代表は、頑張った。
この敗退は悔しいけれど、明日に続くものが確かに残った。
その財産と呼べるものを生かすも殺すも「これから」に掛かっている。
では、その財産とは何か?

それは、攻撃的守備。(とオレは呼んでいる)

今までの全日本を含む日本代表の試合は、必ず何処かに不安感を持った試合ばかりだった。
それは、外国のチームの攻撃に対する恐れであり、失敗してはいけないとして余計に固まってしまう・弱気になるという精神状態の弱さが、どうしても拭いきれなかった。
これを「どうやって払拭したらいいか?それが出来得るか?」が、今までの見えない大きな課題であった。

一般的・表面的には、「攻撃力の無さ」という形に表現されてしまっていたが、日本サッカーの弱さの実態とは、そこ=「個の弱さによる恐れ」にあると思う。
これは、中々解りにくい・自覚認識し難いことであったに思う。
何故なら、島国だからだ。
大陸という地続きの状態で多くの他民族がしのぎを削って生きている・・そういう基本的環境の違いが、他民族との遭遇を恐れさせている・・・なんて解ったようなことをいっているのだが、勘違いかもしれない。でも「そこのところから来る」ものだと思ってしまうのだ。

W杯本番以前にあれだけ無様な試合をしていたから非難轟々は当然でもあったし、また期待するに値しなかったのも当然と言えば当然だった。
そんな状態でメンバーも変えずでのW杯突入であったから、オレとしては期待なんて全く出来なかったし、他国のゲームを楽しみにしていた。でも「もしかしたら・・」と日本代表試合のチャンネルを合わせていたのが本音でもあった。

だが、今回のW杯においての日本代表の豹変振りには、正直凄く驚いた。
あの、試合開始ホイッスルが鳴る以前からいつも漂う「弱気」が、初戦の対カメルーン戦では、全く感じられなかった。
凄く不思議だった。
そして試合は、鋭敏な危機察知能力・瞬時に複数でボールを奪いに行く・攻撃を自ら仕掛けるという「攻撃的守備」が出現し、逆サイドの有効利用を含むエリア感覚の全選手の共有、それを基盤にしてからこその松井の執拗な切り込みとセンタリングにより本田の得点が実現したのだ。
得点後であっても、全く気持ちが引きっぱなしのサッカーではなかった。
これには、本当に驚いた。
そして、嬉しかった。

次戦の対オランダにしても、その「悪しきムード」が感じられなかった。結果は惜しくも敗れたが、確かな手応えがあったに思う。

そしてグループリーグ突破を賭けた対デンマーク戦。
「攻撃的守備」を基盤とした「攻める気持ち」を結集した試合となった。そして結果を出した。

日本代表は「化けた」のだ。

その急激な成長というより豹変であり、化けた感が強い。
それは、あのチームが、絶対的な自信を勝ち得た結果であったに思う。
その自信とは、ニホンジンというメンタリティに合ったサッカーのスタイル・俺達は「これだ!」という選手自身の実感から来るものであったに思う。
こうやれば、自分達(チーム)そして個人も活かすことが出来るんだという実感が、あったのではないか?

その確かな実感を持ってでの16強進出であった。
そして8強挑戦。
その自信は揺るぎないものであることを画面で見ていても感じた。
結果は、悔しくも惜敗。
だが、確かに勝ち得た自信こそが、偉大な財産なのだ。
それこそ今まで喉から手が出るほどに欲しかったものだ。
それを手に入れることが出来たと思っていい。

余談だが、16強進出でのアジアの評価が嬉しかった。
隣国の韓国や中国そしてサッカーの盛んなベトナム等から好意的な評を得たのが、なんとも嬉しかった。

ヨーロッパ勢の衰退は、目に余るものであったが、しかしこのままでいる訳は無い。必ずや復活するであろうし、アフリカ勢にしても今回のW杯を基点にして更なる強化をしてくるだろう。南米勢力は今、優秀な個人技プラス守備で世界のトップになるのではないかと思う。
そしてアジアは、ようやく世界のサッカーが出来るレベルに到達したのではないか。だが余談は許されないのは言うまでもない。
マダマダ新興国であり、新興地域でもあるからだ。だがアジアの他の国のレベルアップも著しい。

これからが楽しみだ。
Jリーグ・個々の選手・協会に託された課題は、余りにも大きい。
そしてアジア地域での交流試合ももっとやるべきだろう。
更には、ヨーロッパや南米・アフリカ等の諸外国との普段の交流試合も絶対必要であろう。

彼等日本代表に夢憧れ、サッカーをやろうとする後続が出てくるだろう。
またそれを望む。
でも、それは「彼等以上の存在としての個に成る」ということが必須条件なのだ。
そしてチームとは、人間・人の組み合わせ。
これは、難しい。
平々凡々の集合体であっても、たった一人の新たな加入で化けることもある。
人間の集合体は、やってみなければ解らないのが実情だ。

その意味で、今回のW杯日本代表は「とてもいいチーム」であったのだろう。

胸を張って帰国してください。
お疲れ様。ありがとう。

そして、サッカーにありがとう!

Thursday, June 24, 2010

自分達のスタイル。

サッカー日本代表が、W杯で、アウェーでの1次リーグ突破した。
今だ興奮が、続いている。

第1戦めの対カメルーン。
今までのスタイルをかなぐり捨ててでの布陣・戦法で勝利する。
ここで出現したのが、攻撃的守備の片鱗だった。
それがあったゆえの値千金の1勝だったに思う。

第2戦めの対オランダ。
同グループ内で優勝候補でもあり最強のFIFAランキング4位相手。
苦しい試合だった。
負けたにしても、守備陣の貢献度は高かった。

そして第3戦め。
対デンマーク。
カメルーンにしろデンマークにしろ所謂FIFAランキングでは、同グループ内において最下位の日本。
だが、この試合にて、手に入れたかった「自分達のスタイル」の原型が出現した。


サッカーの試合を初めて観戦したのが、もう36・7年前位か?
国立競技場にて、ヘディングとオーバーヘッドの鬼ウーベ・ゼーラー率いるハンブルガーSVと全日本。
それから当時現役であった王様ペレ率いるサントスFC対全日本。
どちらも当然の如くの結果だった。
簡単に言えば大人と子供・プロとアマの差?世界との差をイヤというほど見せつけられた。

それから日本リーグからJリーグとなった。
多くの往年の名選手達が、Jリーグにやってきて熱いプレイを見せつけた。ジーコやストイコビッチ等、彼等の現役最後の姿を見られなかったのが残念だった。
往年の・・とはいえ、世界最高峰であった彼等のプレイを直接経験出来たことは、後続のJリーガー達にとって大きなプレゼントだったに思う。
正にエクスペリエンス。ボールに対してのタッチ・スピード・モチベーション等、何から何まで直接経験出来てこそのことだったであろうか。
全日本の選手であった奥寺氏がブンデスリーガ加入の後、時を経て徐々にJリーグの日本の選手が海外へと移籍していった。

かのデトマール・クラマー氏からサッカーのなんたるかを教わり、それから数えれば50年程経っているであろうか?
ついこの前までの日本代表のプレイは、世代が変わっても、ずぅっともどかしい試合をしてきたに思う。
中継を見た瞬間から感じる「不安感」それをずっと感じていた。
相手にボールを支配されなくても、何故か必ず不安感がつきまとっていた。

それは、今に思えば「個の精神的な弱さ」から発する不安感であったように思う。
勿論基本的な技術が未熟であったり、戦術の無さであったり、あげていけばそれぞれ要因はあるだろうが、それもこれも全て「個の精神的な弱さ」から来るものであったに思う。
一般論?で言えば、我々は諸外国人に比べてでの「個の弱さ」は、特性であって「しょうがない」もの。
だからマトモに「それ」を改善しようとすれば、当然無理なことであったであろう。
中田や今のチームでの本田・松井・長谷部といった個として屹立出来る選手の登場も必要であったが、チームとしての国民性というか精神性をどのようにプロデュースして自覚させるかが大きなポイントであったように思う。
歴代から今までのチームは、それが出来ていなかった・・というか、解らなかったのかもしれない。
全て試行錯誤の連続であったであろうし、理屈では解っていても「それ」をどうすれば克服出来るとまで手が届かなかったように思う。


最近までのパスを主体としたプレイスタイルでは、攻撃に繋がるパスというよりかは、何故かボールを持つ責任から逃れようとしているようなボール回しにしか感じられなかった。
ディフェンス=守備にしても、マン・ツー・マンでは、技術の差・当たりの弱さばかりが際立って感じられてしまっていた。
岡田監督が、この「個の弱さ」を「組織的」な体系に変革させ対処させたかどうかは、今では解らない。
勿論、その考察は(自らが選手であった経験を踏まえてでもありの)イヤというほど考えていたであろう。
思うに、人間の組み合わせが「上手くいくか?否か?」が、大きなポイントであるような気がする。

それこそ偶然の必然というものであろうか?
確かに上手い選手の集合体=強いチームではない。

今回の南アW杯のけたたましいであろうブブゼラの轟音の中では、言葉による意思の疎通も難しいであろう。大声を出すのは勿論のこと、更に身振り手振りで意思を伝えあっていたそうだ。
そして、対デンマーク戦のトドメの3点めの本田~岡崎のゴール場面。
あれは、暗黙の意思疎通(イメージ共有)による瞬間的な反応であったであろう。
躊躇しているヒマなど皆無の「その瞬間」に素晴らしい連携によるゴールが出来た事。
それが攻撃的守備を基軸とする攻撃のフィニッシュであったに思う。

エリア感覚を複数の選手で共有し、攻めて来る相手に対し複数で潰しボールを支配する。そしてセカンドコンタクトからオープンスペースへのパス。
多くの場面で、日本代表の選手がいる・手薄さを感じさせないという、スペースを潰す・そしてボールを受けやすいスペースを作る・自ら走るということが出現している。
そして特筆すべきは、一対一での仕掛ける気持ち。
攻守全般にわたっての、アタックする気持ち。
ゴールへ向かう気持ち。

勇気。

これは、画期的なことであった。
今までの日本代表には感じられなかったピッチのスペースの有効利用と共に出現してきたのだ。
ここで「攻められるのは当然」として、急遽体制を変革させたのは岡田監督の手腕であったのだろうか?それを各選手が理解し、自分のものとして自ら動く・勇気を持ってアタックする・というところまで、よくぞやったと思うのだ。

海外のメディア報道での一言「ヨーロッパのチームが忘れている献身を日本がしている」という報道があった。
一言でいうならばその「献身」ということなのであろうか?

ようやく、その献身という「ステージ」まで日本代表が辿り着けるように感じた、その意味において歴史的な「1次リーグ突破」であったように思う。


献身とは・・・・チーム?その国?

それは、単純に一個のサッカーボールに対してのような気がしてならない。



そしてその向こうには、生きること・・・というようなものなのだろうか?

祝!サッカー日本代表W杯1次リーグ突破!

オレの「1次リーグ全敗で敗退」予想をオモイッキリ裏切ってくれて、ありがとう。
こりゃ、嬉しい。嬉しいに決まっている!
いろいろ取り立たされていることはあるだろうが、ナンといってもW杯だ!
ああ、ナンと幸せな連中なんだ!
世界が君達を観ているよ!
掴みかけているグルーヴをモノにして、思いっきり楽しんでこい!

最高だ!

Tuesday, June 22, 2010

消費税増税前提には、投票しない。

結論は、そういうことだ。

社会保険・厚生年金・国民年金等の社会保険の財源を確保の為に、法人税減税と消費税増税をセットにするという論法は認めない。
国際的にも法人税は、割高ではないという数字もある。ましてや未だ不況から脱していない現状下であり、現財政の無駄・不適切な使われ方が全く是正されていない 状態で、消費税を増税とは笑止!
説明しようにも矛盾どころか「その目的」のあざとさが透けて見える。
バレバレだ。

http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-3fab.html

民主党の現在の執行部は、方向転換をした。
私達が、前回の衆議院選挙で投票した意思と違う、言うなれば旧勢力の自民党と同一方向にシフトした。
これは、民主党全体の方向転換ではなく、内部での勢力が旧勢力と結びついた結果と見る。
その方法は、「抱きかかえ」というらしい。

選挙という私達の唯一の政治参加方法を蔑ろにする、極めて悪質な方法であり、それは今までずっとやられてきた方法でもある。

もう騙されない。

選挙とは、代議員に託すことである。
ならば、「その人」がどうであるか?で、投票する。
ナニナニ党という、看板は既にあてにならない。
あてにしない。

唯一、残された方法だ。

Monday, June 14, 2010

ワールドカップ初戦にて ニホンのスタイル

兎に角、FIFAランキング45位の日本代表が、インテルでプレーする世界的プレイヤー、エトーがいるカメルーンに1-0で勝利した。

これまで自分が思っていたことをズバリ書いてくれているスポーツライター相沢光一氏の記事があった。

http://diamond.jp/articles/-/8437


カメルーン戦で1勝をあげられた戦い方でもって、ようやくワールドカップにて試合が出来る末席に入れたかもしれないという感触を持った。

サッカー日本代表の試合・・もう40年近くに亘ってナンダカンダと見てきたが、必ずと言っていいほどに何処かに「不安」を感じていた。
競技場にて観戦出来ないのは残念なのだが、TV中継観戦の良さとしては、ゲームを広い視野にて見られることだ。
今まで必ず抱いた「不安」。そして「苛立ち」。

その「不安」が、カメルーン戦にて不思議にも感じられなかった!
それは何だったのか?を考えた。


「堅実的な守備」

守備なのだ。
それも押し込められて守り一辺倒でヒイコラ凌ぐとは違う、いつでも攻撃へ向かえる視線を外さない堅実的な守備。
相手の猛攻を必ず潰して次の攻撃へのシフトが可能な守備。
システムがどうの、フォーメーション云々ではない守備力。
全員守備で泥臭いだとかつまらないとか美しくないとか・・いろいろ揶揄されるであろうが、先ずは手に入れるべきは、この守備であったと思う。

それからこの守備で必ず必要とされるのが、ポジショニングとエリアに対する認識と責任であろう。
突っ込んでくる攻撃に対して複数人数=分厚い守備で徹底して潰す。そして直ぐに体制を戻す。
体制を戻すに当たっては、次へ繋がる突っ込み=攻撃する気持ちを絶対必要とする。
それは、幅広い視野を各々の選手が持ちえて初めて可能となるものだ。
素早い縦方向へ突破・もしくは逆サイドに振る勇気。
それは高度なエリア感覚を必ず持たなければ出来ないものだ。
その最重要な感覚をもしかしたら手に入れることに成功したのかもしれない。
だから不安感は感じなかったのかもしれない。

今までの数十年に亘る代表チーム・特に日韓合同開催W杯以降の代表チームは、何故か「黄金の中盤」という勘違いをしていたと思う。
中盤での無駄でしかない・パスと呼べない・簡単にインターセプトされるボール回し。
それを「ゲームを創る」とか「中盤を支配」とかエライ勘違いをしていたと思っている。
ダラダラと無駄なボール回しをポゼッション率どうのこうのに摩り替えて都合のいいように考えて勘違いしていたと思っている。
実際は、当たりの弱さ・ボールに対するセンスの無さ・個人技の劣勢・気持ちの弱さ・総じて言うところの「個の弱さ」から来る、単純な「アイディアの無さ」だった。
それを飲み込んで租借し打開出来得る方法としての「集団的守備」が必要だった。
絶対に負けない強い気持ちと高度なエリア感覚を持たないと実現出来ない、集団的守備が必要だったのだ。

その雛型が、カメルーン戦で出現したかもしれない。



時間が掛かった。確かに。
それは、必然でもある。
世界でやっていける強い個・選手の、それも複数の登場が無ければ不可能なことだ。

それは至極当然なこと。
ワールドカップ出場国チームの殆どが、ヨーロッパを始めとするサッカー先進国リーグで活躍している選手が主体だからだ。

バンドにも言えることなのだが、上手いミュージシャンをただ集めただけでは、ケミストリーというか?何かは生まれない。人間の組み合わせという事が、もの凄く重要だ。
サッカーチームにおいても、このこと=人間の組み合わせという事が当てはまるのであろう。
生き物だということなのであろうか?不思議な事だ。
だが、それが面白い。



思えば過去のW杯出場国で印象深かったのは、記憶が定かではないのだが、確かアイルランドもしくはスコットランドだったか?
それほど有名な選手がいた訳では無かったが、粘り強い試合運びが、強烈に印象に残っている。
しつこいまでの徹底した全員守備。そして飽くなき勝利への渇望からくるカウンター。
素晴らしいチームだったに思う。


日本代表というか、ニホンのチームの目指すべき姿は、黄金の中盤・華麗なパスワークで・・という幻想を捨て、泥臭くも粘り強い試合運びが出来るチームであるように思う。
それこそ世界から煙たがられ嫌がれるような。


今の日本代表チームは、番狂わせと評された。
至極上等。
代表に惜しくも選考されなかった選手にも、このコンセプト下でマッチする選手はいるのだが。
選手選考、そこが代表監督の間違った大きなポイントに思う。
ナニカのカラミがそうせざるを得なかったのか?センスの無さなのか?
解らない。
言えるのは日本サッカー協会の体質によるところであろうか?責任は有る。

だが、今回のカメルーン戦での戦い方は、日本代表としての重要なヒントを初めて示した。



その意味において歴史的な試合だったと思う。

Tuesday, June 08, 2010

静観すると言うよりせざるを得ない

アイも変わらず政治の世界は、どうも二重三重のトラップがあるように思う。

物心ついて40年以上、気になる判決やら政治判断、選挙結果、世界情勢?等が、自分の基準と違う違和感をずぅっと持っていた。

「どうしてそうなるのか?」が、理解不能な結末になることばかりだった。

今現在、ある指標というか、それに照らしてみると「何故そうなるのか?」の意味は、何となく解るようになった。
だが、それは根深い暗さを伴うものであった。
しかし、自分が持つ(多分両親から受け継がれているものなのかもしれない)所謂「五分の魂」が、疑問を自分に投げかける。


このクニでの自分が唯一出来る具体的な政治判断は、選挙だけだ。
今までに投票しなかったことは、数少ない。
唯一の権利だ。
それを放棄する訳には、いかない。

ある一定の枠・・ナニナニ党だから・・とか、誰かに頼まれたから・・とか、そういう安易なモノの判断基準では投票は絶対にしない。

だが、誰に投票するか?が、問題なのだ。


「その当人が、何を考えて何をしようとしているのか?」

それこそが判断すべき物差しだ。
それが見えにくい。
だが、そこを出来る限りにおいて見抜く必要を感じる。

もはやメディア・報道は、信じる訳にはいかない。否、信じない。
テレビ・新聞等は、糞だらけな事ばかりをワメキタテテイル。


人間を支配する方法とは、どうすれば出来るのだろうか?
単純に「力」だ。
人間を屈服させるには、社会的に抹殺できる力と直接命を奪える力があれば、その人間を支配出来る。
その力を行使するツールは何か?
食料・エネルギー・医療・武器等・そして金融だ。
それらを支配するものを地球的規模で検索すれば、その実態がおぼろげながら解る。
彼等に慈悲というものは無い。

で、選挙。

それらと「どう相対するのか?」の姿勢が、判断基準だ。

風が吹けば桶屋が儲かる・・・コトワザとしてこの比喩は素晴らしいと思う。
コウナルトコウナッテコウダカラコウナル・・・それを仕掛けるって???
仕掛ける奴がいるんだよってこと。

いきなり何でそこに結びつけるかって?
オレが狂ったとでも?
ああ、そうかもしれない。それでもいい。ただ、そう結び付けてもおかしくは無いということなのだ。

次世代の人達よ。
それらを見極める力・知性を先ず持つ事を望む。
それが無いと己の判断は出来ないからだ。
道は遠く険しいに違いない。
私達もそうだ。
今現在でも、その渦中にある。
残念ながら生き続ける限り、それはつきまとう事であろう。
ただ希望は捨てるな!
それを次へ渡すのだ。



大仰に言えば(事実でもあるが)、人間は、地球に生かさせてもらっているだけなのだ。
その意味で人間は、平等なのだ。
だから一部の人間が、他の人間を人間と思わず奴隷・家畜として搾り取り餌にし続けるだけでなく、戦争や紛争をワザと仕掛け、世界中で日々を一生懸命生きている多くの人間の命をないがしろにし、生かすも殺すも思いのままに支配し続けることは、断じて許してはならないことなのだ。

Sunday, May 23, 2010

音楽情報量の差というか?

おやまあの連続投稿。

で、最近ネットラジオってのでアフリカのチャンネルに接続したらさ。

それが!
カッコイイんだ!音楽が!
まー、コンプーターで編集しまくりだけど、そういう音は若い連中、抵抗無いじゃん?

で、そんなカッコイイ音楽は、このニッポンでは中々聴けないのだ。
普通に聴けないというか、流れない。

ドメスティックなもの・・JPOPが悪いってんじゃあなくて、ネットで世界中とかね?情報化社会とかいっちゃっても、全然閉鎖的なんじゃあねえか?と思っただよ。
特にテレビ

まーテレビに始まる放送・新聞・ネットなんかの情報は、基本的に操作されているってことがバレバレなんだけどさ!

そればっかりが流されるから信じてしまうのだ!

結局自分で探すしかない。
その大事なセンスがあればこそ・・なんだけれどね!

デジタルアーダコーダ

ちょいとネットニュースやらを覗いてみれば。

なにやらブルーレイの200倍?可能な新素材発見BYニッポンとな。

うー。

で、音楽業界CDじぇんじぇん売れませーん・・・ってのと、考えてみると。
なんなんだろーね???

LPからCDへの移行期から音楽業界に足を踏み入れた・・といってもバンド稼業をやりだした時期なのだが。

LP・・アナログからCDデジタルへの移行するに、「ノイズが無い」とか「音がいい」とか言っておった。
でも「音」の情報量でいえば、よく解っていないけれど・・・アナログのほうが多いように思う。
で、CDでの話。
CD・・というメディアには、ご存知のようにCDRなんかでもせいぜい800メガ位。
んだから人間の耳の可聴域以外の低域やら高域を「CD版に入らない情報量だから」と削った。

まー、録音時の機械やらAD/DAコンバータやらハード面が、無理矢理な移行だったが為、結果的に遅れていたのだと思う。
で、今ではまあナントカなっているよね。

まー、それから「音」が「データ」?として今じゃあ闊歩している訳なんだが。
うー、そういう訳か????

データねえ・・・

データだろうがナンダロウが関係無い!
音は音。

で、そのDVDの登場からブルーレイですか?
で、そのブルーレイの200倍の記憶媒体????


ってことはさ。

CDで入らない不可聴域の大事な音の帯域も、デージョーブ?ってことなんじゃね?

最近パソコンで編集ソフトってのでアアタラコウタラ自分でやりだしたのだが、やれ16ビットだぁ24ビットだぁと、44、1やら96?やら??

で、そのビット数を上げるイコール解像度って気がしているんだけど、いいのかね?
それでもってメディアに情報量がいっぱい入る・・ならさ。
ワザワザMP3だかに圧縮なんてケチクセエ真似をやんなくてもいいってことだろ?

解像度をビンビンに上げたハードとソフト・・やらなんやらっていうのかね?
それになっていくってこと?

音が良くなる・・・解像度が上がるのは、まーいいこととしてみるか!でいいように思う。

オレは、未だ聴いたこと無いのだが、アナログLPを非接触(たぶん光だったか?)でのアナログLPプレイヤーがいいんじゃあねえか?と思っているんだが。
未だ作っているのかな?
多分新潟にあるメーカーだったようにウル覚え。

だよなあ。
結局ハードメーカーの大合唱でCDに移行した(ユーザーに買わせようとした=テレビデジタル化も同じ流れがある・・理由はもっとエグイけれど)のだが、音楽がネットやらで無料でデータとして飛び交ってしまったもんだから、デジタル化したツケが、メーカーと業界?に跳ね返ったってことじゃんか?
無料ダウンロードってやつでね。
メーカーやら業界縮小やら倒産の嵐だったもんねえ。
で、馬鹿げた宣伝で「ダウンロードがエコ」???なんてヌカシテイルCMもあるもんなあ!

んー、ハイエンドオーディオってんですか?
まー解らんでもないが、1000万円かけて高価なCDプレイヤーやら電源整流器やらEQやら・・でも真空管アンプにスピーカとくりゃ、音の出口はさ、そんな変わりようがねえってことでしょ?

メーカーさんはさ、この際、原点回帰で「いい音」に向かえばいいのだ。
で、業界はせっせこと「いい音楽」を作ろうと必死コクってのが本筋ってことなんよね。
ハンディプレイヤー向けのコンテンツ(って言い方がナア!アホ業界君じゃん)などで、媚びうる必要無いんだよ。

それしかないんだよな。
もうデジタル万歳っていう幻想は捨てないとね。いい加減。
デジタルだとかアナログだとか関係無いの!!!

いいことやんないとね、ダメだっつーことでしょー?!

Monday, May 17, 2010

あらためて音色(ねいろ)へ

音色・・ねいろ と言ったほうが、おんしょく と言うより好きだ。
他にもトーンだとか、言い方はイロイロあるだろうけれど。
オレには「ねいろ」と言うほうが、好き。

今までにも、この「ねいろ」についてアアダコウダと言って来た気がする。
でも、ようやくと言うか・・

アホなアタマで考えて?みたものの、もとがアホだから考えたってタカが知れている。
だからそう、自分にとって一番気になったもの・・・

ねいろ  をモット深くいったろうじゃんか!
っと思った訳ですな。

単純にさ、自分が好きなギタリストって、それこそ本当に「音がいい!」のであるからしてね。
であったら、自分もそこにいきゃあいいじゃん・・・ってもんだ。
しかし、そうだとしても、茨の道?終わりの無い無限地獄?
とにかく大変だってことには変わりは無い。

あたりまえだ。
「これでいいやぁ」なんかある訳無い。

その「ねいろ」には、ノリやら表情やらなんやらが全て入っている?っていうのか?
そんなもんだと思っている。
自分の楽器にしたって、考えてみリャ「それ」を実現する・出来る可能性がある楽器だと直感したことでもあるもんね。
で、最近になってピッキングについても自分でのやり方が見えてきた感があるってのも、この「ねいろ」を追求するに一つ拍車がかかっている要因でもあるかな。

オレは、ピックが無いとダメなんだよね。
まあ、ソレは今現在の話でもあるけれど。
とにかくピックを使って弾く。
でも今までは、どうもこのピックってぇのが「借りてきたナントカ」みたいな、自分のものじゃあないような感覚から抜け切れなかった。
もちろんフィンガーピッキング・・指弾きでは無いから仕方が無いのかなあ・・と思っていた。
でもねー、弦に絡み付いてしまうというか、引っかかってしまう感がオレを悩ませていた。

ピッキング。
このピッキングを含めた弾き方というのは、ホンの数ミリ・・否!数ミクロン?というか、僅かな違いでも凄い違和感を感じるものだ。
まるで別世界だし、自分の指ではないような感覚になってしまう。

でも、他の人とかのピッキングフォームなどを見てみると滑らかに弾いていたりするんだよなあ。
スンゲーうらやましい訳だ!

で、逆アングルという弾き方があるのだけれど、その弾き方はどうマネをしても出来ないことが解った・・・というか、今は無理と。

で、それならば自分なりにピックの角度をどうやって工夫するか?が課題になった。
これ、始めから逆アングルそのものをやろうという動機ではない。
今までのピッキング方法では改善する可能性が感じられなかったから、では他の方法で可能か?どうか?の試行錯誤の過程なのだ。

アアデモナイコウデモナイで、普通?の右手の持ち方でピックの角度をつけるやり方を見つけた。
それで弾いてみると、今まで引っ掛かってしまうところがアレ~・・弾けんジャン!
やったー!てなことになったですな。

これ自分にとっては大発見!

そうなってみると表情の付け方だとかナントカが自由になれてきそうになっている。
ピックがまるで指の先端のような?指の一部・・ていう感覚になれそうなのだ。

そうなのだ!

やったー!

で、思い返せば幼少から15歳までナンだか解らずに続けていたヴァイオリンの弾き方・・
ボウイング・弦への弓の当て方やら弾き方って、右手を弓が弦に均一に当てる為に角度をフレキシブルに変化させていたもんなあ。
ハジクとコスルでは違いはあれど、弦に直接当たる瞬間は共通するものがあるね。
云々。。。。

で、やるのだ!ということでした。

Saturday, May 08, 2010

くだらなさがバレチャッタね!

先の機密費だっけ?
使い方っていうか、元ジミントー野中さんがバラシタやつね。

そりゃ機密だぁなあ。
実態は、単なる貯金箱で、それにあやかっていた連中の実名がばれちゃったねー。
歴代首相経験者?メディア関係者?政治評論家?お笑い芸人?司会者?

あーバカじゃねえの?

つまりプロバガンダ費用ってことの使われ方ってのがあるってね。

第二次世界大戦・・・65年前の敗戦ってことで、テレヴィと芸能・スポーツ(野球・プロレス等)は、敗戦時の民衆のガス抜き(不満の矛先を逸らす)ってのが目的で、それは結局「当局の都合がいいように宣伝する・意識をそらせる・洗脳する為のもの」だったってことだあね。
ってことはさ、そこまで支配されているのだから、つまりは全てだってことでしょうね。

だから今現在も、そうだということ。

メディアで「ああだこうだ」の殆どが、支配下にあるってことで、その色がビシビシ付いているってことでしょ。

だからテレヴィ・新聞・ネットニュース等、先ずはそのまま受け取るのは危険極まりないってことだ。
政治評論家?やお笑い芸人が偉そうに物申している事を全て疑うべし!
連中は、広告塔の役目であり、それをすることで世間に出られている基盤を確保されているということだ。

騙されるな!ということ。

それには、自分自身の良心というかセンスにかかっているのです。

それが、本当のバカかどうかの分かれ道ってことだ。
良心を捨て去り、良心を捨てられない連中を騙して利用することが「リコウ」か?どうか?
クニ・体制や主義・宗教・カネ・常識・・・全てに対して、自分自身の良心に沿った思い方が出来るか?否か?

貴方やワタシに五分の魂が「あるや否や」だということです。
そこが基本。

そして、税金・国民年金・健康保険やら全ての巻き上げられるものに対して、その使われ方の徹底した追及と提示が絶対に必要であるってこと。
捜査当局の尋問の完全可視化と司法当局の改革等・・・
やらねばならないことは、ありすぎるぐらいにある。

つまり、関心を持たなければならない!ということなんだと思う。

生きるということの大切さ。命の大切さ。

自分も大切だが、貴方も大切だということが、基本なんではなかろうか?

人間が、大切なんですよ。
一緒に笑うというのが、大切なんですよ。
でも悪い奴は腐るほどいる。
で、貴方もワタシも、その「悪い奴等」になりたいですか?

俺は、嫌だ!
アホで下らなくもダメな俺だが、五分の魂は捨てられない。
何故って、それが多分俺だから。

そう思う。

Wednesday, May 05, 2010

世の中?揺れているね

最近のメディア・・新聞・雑誌・テレヴィ・ネットニュースなどを見るにつけ、本当に必要な情報というのがスポイルされているとつくづく思う。
必要な情報といってもセンサ万別。
人それぞれでもある。

で、情報というのも「お知らせ」だ。

テレヴィは、殆どがCM=売らんが為の宣伝であり、ニュースもまたそれに順ずる。

普天間のこともとても重要だ。

60数年経つ植民地としてのこのクニが、独立を果たせるか否かという問題だ。
防衛とかの話にすり替えられ、前のジミントー政権が無理やり決めた路線をどうしろと言う話なのだ。

そんなドタバタの「お知らせ」の陰で、14年ぶりに性懲りも無く再起動する「もんじゅ」がある。

先日の新潟地震の時に新潟刈羽発電所から放射性物質のヨウ素が二日で700年分!一挙に放出してしまったとの情報もあるのに(一日の許容量でいうと??計算しようにも恐ろしい)未だに原発と核燃料サイクルに拘り続ける意味とは何だろう?

採算ベースにおいても全く非現実的であるもんじゅを再起動させる意味は何であろう?

CO2の増加が地球温暖化・・という話も、それ自体が何かの意図で加速しているようにも思える。
そう、CO2増加を防ぐ為の原発推進?核燃料サイクルへの性懲りも無い舵取り???

地球上に遺伝子を破壊し続ける猛毒・放射能を撒き散らす、その目的だろうか?

エネルギーと食料と水と空気。

次世代には、それらが充分に確保出来るか否かが、生存の条件だと言っておきたい。
事実、今現在でも「それ」が最重要なこと。
しかし、多くの人には「カネ」というものを信じ込まされている。
実際それは、それによって支配される道具であるにも関わらずも宗教よろしく信じ込まされている。
まあ世の中に流通している・それでもって日常があるという事実もある。
でもその実態とは「紙」であり金にいたっては「単なる金属」なんだという事を忘れてはいけないんじゃあないか?

実際には、人間が生きるに直接且つ絶対に必要なものは、「食料」と「水」と「空気」だ。
後は「エネルギー」
そして喰う・寝る所が無条件に保障されれば、大体満足ってもんだろう。

原発とか核燃料サイクルなどというものは、原子レベルで電力を生み出すのではなく、ゆっくりと爆発させて得る熱でもってお湯を沸かし、水蒸気でもってタービンを回して、初めて電力を生み出すのだ。

だったら、あんな危険極まり無いものをワザワザ使うよりか、地熱発電・・・温泉地は、沸騰水があるところでは自前の電力は、地熱でタービン回して発電すればいいし、河の流れのあるところならば、いたるところに水車(タービン)を回して発電すれば?
海に近ければ、波動発電ということもすれば?
酪農の盛んなところであれば、牛の排泄物からメタンガスを作れば?
これは、浄化槽の工夫で人間のモノでも出来ることであるような記事を見たことがある。

家を建てるならば、太陽光発電と浄化槽を工夫して自前でエネルギーを供給出来るシステムを作ればいいのではないか?
そして小さな地域発電を心がけていけば、ワザワザ危険な原子力発電など、しなくていいんじゃあね?
後は蓄電技術をぼちぼちと向上させればいいのだ。

で、それをしては困る連中が、ワザワザ税金の大量無駄遣いと人間の命を縮めようとしているように思う。

だよなー。バカらしい!本当にバカらしい。
でも、これが実態だ。

Sunday, April 18, 2010

誤魔化されてはダメだって。

さる大手のポータルサイトなんかでも何かとアホクサなニュースを取り上げる。
テレビや新聞・雑誌なんか、もう終わっている。
つまり、報道の一極化。大本営発表ってことだ。

それに騙されてはいけない。

オレは、ミンシュトーの支持者ではない。
ミンシュトーの中にも旧勢力というか・・・そういう奴もいるんだ。
今までの第二次世界大戦敗戦後60数年、ジミントー政権というのは、民主主義の名をかたり植民地化を進め、貧乏人を多量に作り、税金を毟り取るやり方を整えて何処かの誰かに献上するシステムを守ろうとする連中のことだ。
そのオコボレ頂戴にへばりついている連中だ。
つまり本当の悪人の手先ってことだ。

ミギもヒダリも関係無い。
むしろソレは、スケープゴート・仮の姿。
カネの流れる行方を追ってみればいい。
カネの行き着くところは「何処」だ?!
証券化されてマネーロンダリングされて行き着くところは、何処だ?!
それに加担する勢力が、今まで大手を振るっていたに過ぎない。

世界中の貧困、そして騒乱、そして戦争は、全てこの仕業といっていい。
グローバルスタンダードとは、世界標準ではない。
一極支配を意味する。
支配とは、何でもって支配するか?

今も昔も、全く同じ。

圧倒的に強力な暴力と金融・そして情報だ。
それで食料・エネルギー・医療を支配する。
それは軍事産業ともリンクする。
人間の生死を支配する。
胴元は、同じってことだ。
国境など関係無い。人種も関係無い。宗教も関係無い。
イデオロギーなど、そこには存在しない。
そんなもんはチャンチャラなのだ。
全て関係無くさせることが出来るのだ。

その観点から、このニッポンを見れば解ることだ。

俺たちに残された唯一の方法は、選挙しか!与えられていない。
ミンシュトーダメだから、前のジミントーもしくはミンナノトーだぁナンダカンダ・・・

それやっちまったら、もうそれこそ奴隷制度完成なんだよ!
俺達は、奴隷と同じだ!って、先ず自意識しなければならない。奴隷になりたくなければ・・・の話だ。

世の中オメデタイ連中の多いこと・・
メディアの戦略にタダ鵜呑みにする・信じてしまうアホがいっぱいいるんだよなあ。
目先のことでアアダコウダのバカがいっぱいいるんだよ。
バカはバカでいいけれどさ。オレもバカだしさ。
考え方は、そりゃ十人十色。それでいいけれど。
肝心要のポイントが、ズレテイル連中がクソ多いんだよ。
それこそセンスってやつだ。
20年前に作った曲(オメデタヤ~)が、まだ古くなれないんだ!
もうあんな曲、お蔵入りさせたいぜ。
自分では、もうとっくに終わっている曲なのに、未だこれが言えてしまうって・・・

そうなんだよなあ。たかだか20年なんだ。
これは、もの凄い時代かもしれないんだ。
今現在は、本当にもの凄い時代かもしれない。

もの凄いとは、決して悠長な意味ではない。
決して楽観的な意味ではない。
巧妙に仕掛けられる罠と55箇所の時限爆弾(ゆっくりと爆発し続ける原子爆弾)が地震で炸裂する前に・・
どうするか?なんだ!

五分の魂を後世に伝えられるか否かの
俺達が生き延びれることが可能か否かの

瀬戸際の時代かもしれない。

Friday, February 19, 2010

最近は、少なくなったが

3月。
いろんな意味で自分にとって重要な月。
その中でも、自分自身に起こった事として、2002年3月16日がある。

もう、8年も前でもあり、未だ8年しか経っていない。

幸いなことに、ごく最近では、この日のこと・・事件に遭遇して重症を負ったこと・・を思い出す回数は、もの凄く減った。

まあ、寝ようとする瞬間に、その記憶が蘇り、なかなか寝付けなくなることは、以前にはかなりの回数があった。
その度に、自分の記憶を「その時」から「今現在まで」のストーリーを走馬灯宜しく辿っていくという作業を(襲ってくる恐怖に似た感情を抑えながら)しなければならなかった。

無理も無い。

自分に起こってしまったことで、この実感は、自分にしか解らないことだ。
だが、自分に頑なに閉じこもろうとは、全く思わない。
まあ、それに以前のように、このことをギャアギャア騒ぎ立てるということも幸いな事にしなくなっていった。

多分この先も忘れることは出来ないであろう。

無理も無い。
無理もしない。

でも、それでいいのだ。
今、ここに自分が確かに在るということは、変わりは無い。

で、二日前程に、久しぶりにフラッシュバックした。
本当に久しぶりだ。

ただ、それを受け止める。
それでいい。

イマが在るのだ。

ソレが全てだ。

Monday, February 15, 2010

サッカー日本代表・・なんだよなあ・・

東アジア杯だっけ?
この最終戦VS韓国の試合をテレヴィで見た。

結果、1-3で負ける。

これで、日本の監督が更迭されないってのが、おかしい。

監督の仕事ってワカランが、先ずは選手の選考だろうかね?
どうも、痒いところに手が届かないような中途半端な布陣に思えてならない。
で、後は試合でのスタメンと選手交代のタイミングとかだろうか?

他にいろいろあるだろうが、目立って見えるのは、そのくらいだ。

で、結果で判断されるのが、普通だ。

サッカーは、好きだ。
だが、日本のサッカーは、まだまだ弱いと思う。
W杯4強と、目標掲げるのは誰でも出来るけれど、それを実現するにはどうしたらいいか?の戦略というか?そういったものがあったのだろうか?
具体性がこの結果では、少なくても俺は、そのようなものが有るとは思えない。
W杯の1次リーグ突破して、その時に口にするのであれば、がんばってくれ!となるけれど。
アジアの片隅での試合で負けていたのでは、チャンチャラだよなあ。

そりゃサッカーは、何が起こるか解らない。
試合は、やってみなければ解らない。
だが、その試合運びの様子は、伝統的な悪い日本そのものだったに思う。

前に行けない。

チョロいショートパスとバックパスで、逆サイドとかオープンスペースを使うという運びが出来ない。
ただボールが来るのを待っている。
だから、パサーは、フリーでいる後ろにいる奴にしかパス出来ない。
ドリブルで蹴散らす奴がいない。まあ個人技が通用しないのか?
もしくはそういう選手を選考していないのだろうか?
ペナルティエリアに近ければ迷わずシュートするという攻撃性が微塵も感じられないし、バックラインからの遅いボール回しで、ゾーンディフェンスを作らせちゃうし、わざわざ密集したところで細かいパスをするってなあ。

ダイナミクスが無い。

繊細さは、持ち味?なのか?
だが、その繊細さを活かすにも大胆さがあってのこと。
勘違いのオーバーラップが、大胆って事ではないだろう?

たまにはキック&ラッシュでもやってみい!と。

で、とにかく監督は交代。

先ずは、それからだな。
考えられることは、全部やること。
現監督は、もう考えることは、やり尽くしているだろうから。
現監督の結果は、出たということだ。

監督交代。

Tuesday, February 09, 2010

演奏ってのは、アイ・・なのかな?

先日、マイケル・ジャクソンの「THIS IS IT」を見た。
どっちか言ったら、圧倒的にPRINCEが好きなんだけれど、見てビックリ。

こりゃ凄い。カッコよすぎ!!

アタリマエっちゃあそうなんだろうね。
何といっても世界のスーパースターなんだから。
とにかくヴォーカルの素晴らしさを再認識。
そりゃそうだ!ガキの頃から(ジャクソン5の頃からね)スーパースターだという理由が、そこにある。
あの圧倒的なダンスパフォーマンスを含め、世界最高峰の一人なんだなあ。
後から「ああだこうだ」言ってもしょうがないけれど、とにかく残念!に尽きる。

で、マイケルが、ナニカと言うと「アイだよ、アイ」と言っていたね。
ふむ。。。

演奏後に、ふと思うときがある。
誰かがソロで発言する時には、そういう状況というか、環境というか?
ソロをとりやすいようにというのだろうか?発言?し易い状況・環境・スペースを作って、「どうぞ!」って感じにしてあげたいというのかな?・・・
これ、単純に反応というか、すぐそういう感じに自分はなってしまうってのもあるのかな?
勿論一緒に演奏している連中が「そうしている」ってのもあるね。
先日の1月16日の時も、正しく「それ」で、皆演奏をよく聴いている。
「俺が!俺が!」というのとは、全く違う。
当然のことでもあるけれど、自分が希薄であったなら「それ」は出来ない。
なんだけれど、尚且つ「他者に投げ出す感」とでもいうのだろうか?
「捧げる」とでもいうのだろうか?
誰に?
解りません!お客さん?はたまたカミなのか?なんなのか?
しいていうなら「音楽」なのかもね。

たとえソリストであろうとも、そんな感じがあるのだ。
だからというか、ソロもバッキング?っていうの?も、あまり違いというのが無いようにも感じる。

それぞれの「音」に、「それ」を感じる。
そういうミュージシャンは、素晴らしいミュージシャンなんだろうな、きっと。
ナンか、それを「アイ」っていうのかなー?とね。

おっと、自分にアイが有るとはね、ワカラナイんだ。
実生活においては、グシャグシャに崩壊・・しているようなもんだろうからなあ。
トホホ・・・ってなもんですからね~。

そりゃ「アイ」があったら、いいよなあ~。

Tuesday, January 19, 2010

最近のこと・メディア報道ってナンだ?

どうも、民主党が政権を奪取してから、利権保持の連中が「小沢おろし」やら「民主党イメージダウンキャンペーン」やら凄いもんだ。

オマケに東京チケンまで動き出してきてやんの。
今回は特に、最低だということを自ら暴露しちまったな。Kさつさん。
ジミントーの時には、全くそんなことしなかったクセに、まあ恥も外聞も無くやれるよなあ。
上からの命令か?
上って誰なんだよ!
歴代のジミントーオエライサン連中の裏側見てみれば、どうなんだよ!

去年の「仕分け」っていうのが、画期的ではあった。
その良し悪しは、これから続くことで修正していければいいことだ。

結局、この仕分けであからさまになったことは、「いかに税金が無茶苦茶に垂れ流されていたか!」ということなんだ。
だから、年金問題にしたって、何も手が付けられないほど「もう使っちゃってありません!」をどう説明していいのやら?で升添だとかは、こまっちゃったんだろ?
無駄なハコモノでっち上げしまくったのは、誰だ?ってーの。
グルになって、税金にヨッテタカッテタ連中は、誰だ?ってことだ。

ここまで俺達を疲弊させて奴隷状態にして、税金ドロボーしまくっていたのは、誰かっつー話だ。
ジミントーがやってきたことだ!


小沢どうのこうので、目くらましっつー、このメディア操作は、呆れてモノが言えない。

否!言わなければならないだろうて。

ジミントーに戻ったら最後、もう「セフティネット」などは、木っ端微塵に無視され、貧乏人からの巻上げが、また激しくなるだけだ。せいぜい飴と鞭だあな。

今までが、そうだったことを忘れてはならない!

税金のバラマキだぁ・・・
アソーの時のナントカ給付金なんて、バラマキ以外の何者でもないだろう!
役人の天下りどうのにしたって、それを黙認し続けてきたのは、他でもないジミントーだぜ。

俺は、別に民主党の手先ではない。
ただのボンビーだよ。
政治の実態は、欲の塊でしかない位何となく解る程度さ。
新聞やテレビなどのメディアは、もはや信用出来ない。
世論調査にしたって、今の今までに俺のところまで来る事なんて無かった。
そんな奴は、いるのか?ってなぐらいだ。

数字に騙されてはいけない。
そのデータの出所が表記されていようが、その実態など一般には全く解らないことなのだ。
だって、俺が解らない・知らないからだ。
無知な俺ぐらいが「ああ、知っている」というものなら、世間にはある意味浸透していることなんだ。

50年以上続いた、一部の人間のみへの利益誘導政権は、終わらせないとダメなのだ。
アソーがいた頃に戻りたいのか?
俺はいやだね!

この流れと言うのが、何か!というのを注意深く見守っている。
ある種の意図を感じさせる。

その実態は、恐らくおぞましいものだろう。