ケイオスというのかカオスというのか、定かではない。
最近に思う事。
カオス(としておこう)というのは、特別なことではないのではないか?
普通・・なのではないか?ということ。
人間が、グチャリと入り乱れている様、この光景を目撃して気がついた感がある。
そこには、「人間だから」善も悪も?良いも悪いも憎悪もアイも、全ての業が入り乱れ、こんがらがり、矛盾を孕み、でも生きていかねばならぬ、否、生き抜こうとする意思のようなものがあるように思う。
都市とは、人間が生み出した幻影でもあり、また現実でもある。
ゆりかごのような、しかし生死を翻弄される厳しい荒野のようでもある。
街は、そこに居る人間達の無意識を残酷なまでに映し出したりもする。
さてトーキョーとは、何だろう?
ある映像にて、ある国の街の光景を目にした。
そこは、あらゆる文化が軋みながら交差している所だ。
その街の光景をバックにナントも切ないメロディの歌が画面に流れ、その歌詞のテロップには、こう記されていた。
「この街の人間は、皆自分勝手。
自分の事しか考えてない。
この街の人間は、皆詐欺師。
誰も信用できない。
でも、この街に生きる・・・」等。
NYもベルリンもアムステルダム・ウィーン・ソウル・香港・シドニー・・そしてトーキョー。
皆違うが、皆そうだ。
俺の音楽?は、何故かグチャグチャ・・・といっても、そんなにノイズの嵐というほどでもないが。
しかし俺にとっては、いいとか悪いとかを別にして、しごく当たり前にやってきた。
むしろ、これが普通・・と言わんばかりに。
何故だろう?と、自問自答もしたが、勿論答えは見つからない。
せいぜい、まとめるのが嫌なだけ?とか、めんどくさいとか、同じ事を弾けない・・とか。
そんなどうしようもないことを思うだけだった。
ただ「制御」という方向には、抗っていたのか?とも思う。
トーキョーは、世界的に見ても、かなり制御されたところだ。
人の顔が、見えにくい場所であると思う。
俺の音楽は、多分「剥き出し」なのだろうか?
先の映像のミュージシャン達にいっぱいのシンパシーを感じる。
繋がりたいのは、こういう連中だ。
迷う事は、ない。すでに?否、元々そうなのだから。
ダイヴ トゥー ケイオス
行きたいところは、もっと向こうだ。
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