いやあ、驚きでした。
最高裁が、ある音楽教師の「キミガヨ」伴奏拒否に対して、云々ってやつ。
大体、昔っから最高裁の判決とか判断というのは、どうも腑に落ちないものばかりだ。
俺が、チュウボウの時に覚えていることで、社会の先生が「国政選挙のときに、裁判官の信任・不信任があるから、それには必ず不信任にしよう!」と言っていたことだ。
俺は、初めての選挙に、それを思い出しもして、自分の意志で「不信任」としてきた。
理由は、判決内容を「覚えていないから」だ。
組織は、膠着することが、腐敗を生む。
だから、必ず「不信任」として、「人の入れ替え」をしようとしてきた。
いやいや、驚いたのが判決・判断内容?では無い。
この最高裁の判断に、多くのブログ(ヤフーだったか?)の反応の多くが、「妥当でしょ?」というものだったことだ。
驚きです。
あーあ、だから君達「イシハラ」が好きなんだーっとしかないっすね。
だってね、イシハラは、戦時中は戦争に行けない子供だったもんなあ!
某漫画家なんて、戦後生まれだから、戦争を知らないはずなのにね。
殺されそうになったことって、ありますか?
理不尽な暴力に遭遇してしまったこと、ありますか?
団塊の世代の人達は、これでいいと思ってんですかね?
あれだけ、若いときに暴れてたのにね?「反体制!」とかいってね。
その上の世代・戦争体験者は、何故に「戦争の悲惨さ」を、自分の言葉で訴え続けなかったか?
若い奴等は、沖縄に行ったときに何故「ひめゆりの塔」に行かないのか?
広島・長崎の「もう過ちはしません」という、切実な思いを何故に風化させてしまおうとするのか?
メディアは、今も世界中で起こる戦争の悲劇を自分達と照らし合わせて伝えないのか?
ほんの60数年前には、ニポンは、某北と同じだったのだ。
かつてのニポンそのままなのだ。
ああなりたいですか?また?
誰かを「崇拝」して、奉り、一部の特権階級のみが私腹を肥やし、民衆は、飢えと重労働と圧政と弾圧・密告・迫害に脅えて、その中で「しょうがないから・生きなければならないから」そうしてきたのだ。
その結果、戦争で全てを失った。
それが、事実なのだ。
その戦争に向かう準備として、コクミンには、「クニヲアイセ」と強制したのだ。
「ヒトヲアイセ」ではない。
「クニヲアイセ」だ。
その手段の一つとして、あの歌が使われたのだ。
俺は、人を殺したくない。
殺されたくもない。
そんなまさに「殺し合い」の戦争なんか、絶対にしたくない。
そのシンボルだったあの歌は、絶対に歌いたくない。
音楽の教師は、その歌の伴奏をするのが、仕事ではない。
「音楽」の向こう側の「人間」を伝えていくのが、仕事だ。
他の科目の先生にしても同じ事。
それを、普通の会社と同じだとして、「仕事をやれ・伴奏しろ」という浅はかなセンスには、このクニの末期症状を感じてしまう。
俺のオヤジが、開戦当時に旧制高校の学生だった頃、社会科の先生が、その授業で「シルクロード」のことしかやらなかったと、言っていた。
これは、本当に勇気のいる事だったのだ。
時代の腐った空気の中で、次世代に託そうとした心。
世界を見よ!自分で確かめろ!とした、その先生の伝えたかったこと。
あえて言うならば、親父を経て、俺にも伝わっている。
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